189 x 49 センチ (全体) 96 x 37 センチ (本紙)
軸先:骨
※全体サイズは表具の端から端のサイズです。軸先部分は含みません。
※商品・軸先の状態につきまして下記【重要なおしらせ】項目をご一読お願いいたします。 絹本(印刷ではなく、描かれている作品です。) 極箱 (田近竹邨・田中柏陰・矢野橋村)
【山本梅逸】1783-1856 江戸末期の文人画家。名古屋の彫刻師の家に生まれ,名は亮・ 親亮・,字は明卿。画号は春園・竹厳・梅佚、のちに梅逸とした。幼少から絵を好み,はじめ山田宮常,山本蘭亭らに学び,当地の豪商で古画収集家であった神谷天遊のもとに寄寓し,中林竹洞らと古画を模写研究した。22歳で竹洞とともに京都へ出るが,やがて諸国を巡って名古屋に戻り,1854年(安政1)尾張藩の御用絵師格に任ぜられて士分に取り立てられた。山水・花鳥ともに優れた技巧を示し,特に華麗な彩色の花鳥画を得意とした。
【田近竹邨】1864-1922 田近陽一郎の子。郷里で淵野桂僊に,京都で田能村直入にまなぶ。明治29年日本南画協会に参加。41年第2回文展から大正3年第8回まで連続受賞。10年日本南画院を結成。豊後(大分県)出身。京都府画学校卒。本名は逸または岩彦。
【田中柏陰】1866-1934 日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。
【矢野橋村】1890-1965 大正-昭和時代の日本画家。愛媛県出身。本名は一智。別号に知道人。矢野鉄山の叔父。17歳で画家になることを目ざし、大阪に出て永松春洋にまなぶ。1919年(大正8)福岡青嵐、直木三十五らと共に大阪における文化の抜本的改革を目ざす研究団体・主潮社を結成。1921年(大正10)には日本南画院同人となり,大正13年私立大阪美術学校を創立。更には意気軒高として創作に励んでいた時期の1924年(大正13)、大阪美術学校を設立。昭和36年「錦楓」で芸術院賞。39年日本南画院会長。吉川英治,長谷川伸の小説の挿絵でも知られる。弟子に直原玉青・清水要樹・大野牧。彼が描いた日本の風土に基づく日本南画は革新的な「新南画」であり、近代大阪画壇において重要な足跡を残した画家といえる。
※付属品につきまして 商品は画像に写っている物が全てになります。 木箱、タトウ箱などの有無につきましても画像をご覧いただき御判断お願いいたします。
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