これを手放す・・・ということは、ひたすら「パリーグを愛してきた者」として、終焉が間近いというのと同義です。福浦との初対面は幕張1塁側選手用サロンだった。
当方は取材者の身分、川崎球場のロッテから村田・水上・高沢らに直接聞きたいことが聞けた時代だったし、選手用のメシまで
一緒に食ってこそ・・・本当の人間同士の話が訊けたし、それを伝えるとファンは喜んでくれた時代だった。
それから本拠地は幕張へ。
もうすでにボロボロなパリーグ弱小球団などというイメージなどどこにもなく、球団広報もサンダル履きだったものが、幕張では革靴で新市の対応となっていた。
そうした中、ボクはロッテ球団伝説のコーチ、高畠康真氏とウマが合った。
彼の教え子はリー兄弟に高沢、西村、平井・・・語り始めたらキリがないけれど、彼が目をつけた選手ら(で素直な性格の者)は順番を待つかのように。順々に首位打者というタイトルを面白いように獲っていった。
おかげで首位打者とは縁がなかったものの、「あの10・19」の立役者、水上義雄は『ミズは敵の動向をヨませる観察力だったら、球界で右に出る者はいませんよ。
『(この人物に会ったら緊張するだろうな…)』タカさんから事前に福浦の評判を耳にしていたボクは、フクに会うのが楽しみだったけれど、ちょっとコワい感じがした・・・そんな予感を抱きながら選手サロンに入ってゆくと、福浦が突然入室してきたが、ボクの姿を番組でも知っていたのか、背筋をモノサシでも背に突っ込んだかのように、背骨を直角にしてボクに向かい、部屋の端から直立不動の姿勢保ったまま、驚くほどの律儀な最敬礼で無言のあいさつをしてくださった。それが福浦和也さんとの第一印象だった。
第一印象を綴っていったら、これで福浦像がすべて浮かび上がってしまったことに今驚いている。
多くは漢の世界、語らなくてもいい。
そのタカさんが幕張時代、福浦にサブローの才能に目をつけていた。
”素直である・・・”。
師はこれ以上の素質を求めなかった名伯楽。
それがプロ野球球団の上層部の権謀術数にほとほと嫌気がさして、いきなり『高校教師になって甲子園へ行く』という大志を抱いて周囲の度肝を抜いた。
それを実現させようと信じられないほどのエクストラパワーを発揮する・・・それがタカさんだった。
ところがその矢先、『なんだこんな風邪ごとき』と笑っていたすい臓がんを末期と診断される。
飯田橋の警察病院へ、『最後の高畠学校優等生』の福浦、その弟格のサブローが連日見舞いに訪れた。
そろそろ臨終・・・という日。
ベッド脇のサブローに、
『ええか、サブ。今後なんか困ったことがあったらフクに訊け。』
『フクには何でも伝えてある。もうワシの言葉だと信じたらエエんやから』
これが心から愛したロッテに残した名称タカさんの財産のすべてだった。
福浦にサブロー、そしてボクまでも3人がこれを耳にできたのは生涯の財産だったと感謝している。 合掌
『球場に客が来た日』著者 前野 重雄