日本の文人画の先駆者と称される柳沢淇園(やなぎさわ きえん)の肉筆の掛け軸です。蔵出しのウブ出しです。
柳沢淇園は、のちに中国風に(柳沢里恭 やなぎさわ さとやす)と名乗ることを好みました。元禄十六年(1703)、柳沢吉保の筆頭家老である柳沢(曾禰)保挌の次男として江戸に生まれました。淇園は、吉保のもとに集った学者や黄檗僧などと交流を持ち、最先端の文化を吸収しつつ成長しました。殊に絵画に優れ、長崎派の画家英元章(吉田秀雪)に師事して「唐絵」を学びました。享保九年(1724)、主家の転封に伴い大和国郡山に移り住み、同十二年には藩主の吉里(吉保の子)より里の一字を賜り、里恭と改名します。「不行跡」のため処分を受けるという挫折も経験しますが、同十五年に家督を継ぎます。四十代に公務が充実するようになると、作品制作も活発化し、宝暦八年(1758)に没するまで絵画に真摯に向き合いました。 淇園の絵画は、濃彩で精緻に描く人物図や花果図が主であり、文人画で主流となる柔らかな筆墨を用いた「南宗様式」とは異なります。しかし、高い身分に生まれて教養を積み、為政に関わりつつ絵画表現を模索する生き方は、理想とされる伝統的知識人に最も近いと言えます。 儒学と画を祇園南海、儒学を荻生徂徠、書を南国和尚・細井広沢、画を吉田秀雪にそれぞれ師事します。多彩な才能をもち、各分野に異才を示したました。特に画は、南海から中国の画風を学び、さらに独自の研究をし、精密濃彩技法を会得。花鳥図を得意としました。また、池大雅の才能を見抜き、門下にはそ池大雅や池玉瀾がいます。印名は「公美」 「群玉山房」(君羊玉山房) 「玉桂」 「柳氏公美」 「字余曰公美」 「名里恭号玉桂」
「柳澤」(「柳沢」) 「淇園」 「右右書」 「楚有良材」 「栖里恭印」 「柳里恭字公美」
「號玉桂」(「号玉桂」) など。
さて、本作はその柳沢淇園の真作と先祖から伝わっているもので、初だしウブだしの作品になります。扇面の軸装の作品になります。
主題は、中国の三仙人なのか、山中の東屋らしき屋敷には、ふたりの人物が描かれ、左に描かれる橋のうえには、その二人を訪ねる杖をついた仙人が飄々と歩いているのが描かれます。扇面両サイドには、岩肌を出した山々が描かれ、画面中央の川が流れ、その谷あいに東屋が、理想郷のように描かれます。谷あいの向こうには、空気遠近法で、薄く山稜が連なり、画面に奥行きを演出します。全体に墨色の山々に対比し、東屋のまわりの柳などの木々は、美しい緑の画材で描かれています。風景画を得意とした柳沢らしい筆致です。画面左上に、淇園 主人 里恭 と署名しています。その横に、2つの落款が押されています。軸装は、中廻しに、美しい錦の裂地が使われています。全体に美しい状態です。裏の写真と、裏から太陽を透かした写真もあるので、状態などをご確認ください。軸の素材は、木製のようです。専用の桐箱がつきます。箱書きはありません。そのうえに、紙の箱もつきます。柳沢の作品は、多くの美術館に所蔵され、かつて奈良博物館では、柳沢里恭展が開催されるほど、重要な画家の一人です。先に申し上げたように、本作は先祖からの伝来で、蔵出しで出てきたもので、初だしになります。全体の状態は、特に大きな修復や破損もなく、良好な状態です。表具の大きさは。横約63センチ、縦約107センチです。中廻しの縦の長さは約43センチです。扇面の本誌の幅は役18センチで、幅の一番長いところで役49センチです。海外と離島はご遠慮させていただきますが、北海道から沖縄までは、送料無料で発送いたします。また、このような品ですので、お写真と文章をご覧になって、自己責任でご納得され、ノーリターン、ノークレームの方に限らせていただきますのでご理解くださる方のみでお願いします。丁寧に梱包してお送りします。事情で手放しますので、大切に扱ってくださる方にお譲りいたします。