131 x 31 センチ (全体) 30 x 14 センチ (本紙)
軸先:木
※全体サイズは表具の端から端のサイズです。軸先部分は含みません。
※商品・軸先の状態につきまして下記【重要なおしらせ】項目をご一読お願いいたします。 紙本(印刷ではなく、描かれている作品です。) 極箱(甲斐虎山) 二重箱
【田能村竹田】1777-1835 江戸時代後期の画家。安永6年6月10日生まれ。豊後(大分県)岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際,藩政改革の建言がいれられず隠退。絵を谷文晁らにまなび,繊細な筆致の独自の画風を確立。幕末文人画壇の代表的な作家。頼山陽らと親交をもち,詩や書にもすぐれた。天保6年8月29日死去。59歳。名は孝憲。字は君彝。通称は行蔵。作品に「亦復一楽帖」,画論に「山中人饒舌」。江戸時代後期の画家。安永6年6月10日生まれ。豊後(大分県)岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際,藩政改革の建言がいれられず隠退。絵を谷文晁らにまなび,繊細な筆致の独自の画風を確立。幕末文人画壇の代表的な作家。頼山陽らと親交をもち,詩や書にもすぐれた。天保6年8月29日死去。59歳。名は孝憲。字は君彝。通称は行蔵。作品に「亦復一楽帖」,画論に「山中人饒舌」。
【村瀬栲亭】1744-1819 江戸時代後期の漢学者。京都の人。名は之煕,字は君績,通称は掃部,嘉右衛門など。栲亭は号。本姓は源。医を堀元昌,儒を武田梅竜に学ぶ。明和3(1766)年,師梅竜のあとをうけ,妙法院門跡の侍講となるが,のちに病をもって辞す。天明3(1783)年,秋田藩より聘され,世子侍読となる。その後,藩政に参与,総奉行上席に任命され,改革にとりかかるが挫折。寛政3(1791)年には隠居,京都に帰り文人としての生活をおくる。詩文,書画をよくし,考証随筆『芸苑日渉』にその博識ぶりが窺える。
【甲斐虎山】1867-1961 日本画家。豊後国海部郡臼杵(大分県臼杵市)に生まれる。本名、簡。通称、駒蔵。字は厚甫。別号に玉壺道人、梅花道者、酔竹頭陀、苦瓜庵など。明治13年(1880)、帆足杏雨に学び、門下の名手として名を馳せる。後、京都に出て研鑽。明治33年(1900)、夫人、和里子とともに、京都に「文中園」(後に文中女学校に改称し京都高等女学校と合併、後の京都女子大学)を創立、教導にも当たった。昭和36年(1961)歿、94才。
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