銅の生産が増加し始めた寛永12(1635)年になり,幕府は初めて鋳銭事業に乗り出し,江戸橋場と近江国坂本に銭座を設けて寛永通寶の鋳銭に入った。ただし,銭貨の需要は幕府の予想以上に大きかったため,鋳銭事業は幕府直轄によらず水戸,仙台,三河吉田など8カ国に鋳銭させた。
幕府は所期の目的は達成されたとみて,万治2(1659)年いったん鋳銭を停止する。しかし,文政8(1668)年の大火後,銭貨不足が目立つようになり,また,倹約令で打撃を受けた呉服屋たちに鋳銭を請け負わせて救済するため,寛文8(1668)年江戸城お出入りの呉服師らに江戸亀戸村に約15,000坪の土地を与え大規模な鋳銭を許可した。
鋳銭再開の前後で,古寛永と新寛永とに区分されている。両者には製作上の相違がみられるが,その間に特に幣制に変更があったわけではない。
明和5(1736)年,田沼意次(1718~1780)が寛永通寶四文銭を発行した。彼については賄賂政治のイメージが先行しがちであるが,現在においては,「商品経済の発展をつかみ,それを促進することで幕府財政の建て直しを図ろうとした非凡な政治家」という研究者もいる。
四文銭は,これまでの一文銭の1.3倍の重さしかなかったのであるから,これは現行硬貨同様の名目貨幣であった。幕府はこれにより発行利益を得ようとしたが,元禄・宝永時代に荻原重秀による貨幣改悪が失敗したのに対し,市場はこの四文銭を受け入れた。名目貨幣としての大型銭が便利と感じられるほど,商品経済が発展していたためである。
なお,四文銭については,最初21波(青海波)模様が発行されたが,波模様が複雑すぎて不良品が多発したため,翌年から11波に変更された。また,四文銭の輪が広いのは,清朝銭の影響ともいわれる。
文政期になると材質に真鍮(:小判と同様の金色に見せるために使用していた)を使うのも止めた。市民が四文銭に慣れて円滑に流通するようになれば,格好をつける必要もなくなったためである。当時の人々は,明和期の四文銭を「青銭」(:真鍮は手擦れで青くなる),文政期のものを「赤銭」と呼んだ。
元文の改鋳があって幕末まで金銀貨は改鋳を重ねるごとに品位・量目を落としていったが,銭貨も同様で,元文4(1739)年に鉄銭が登場していた。開港翌年の万延元(1860)年12月幕府は,小銭の払底を解消し,あわせて鉄一文銭の製造による赤字を緩和するため,鉄四文銭を発行した。